※基本ネタバレあり
2024/1 サイトレス
「私には認識だけが現実よ」
この台詞が今作の全てを体現しているといっても過言ではないんじゃないでしょうか。
中途視覚障碍者の女性が介護士にサポートされながら新しい住居で生活するも何かがおかしい。。というストーリー
こういうサスペンス映画ってどこまでが現実でどこからが主人公の妄想なのかわからんってことが多いわけですが、「そもそも現実って何なの?」っていうテーマを提示しているといえそう。
刑事()に「事件の後で混乱しているときは認識が現実とは限らない」的なことを言われ主人公が冒頭の台詞を呟くのですが、もともと全ての人にそれは当てはまる。
人は五感で捉えたことを脳で処理した情報、を現実と呼んでいるだけで、その認識の外からは出られません。だからその外には本来何もないかもしれない。
最初は緑色の小鳥が、介護士が「青だ」と言った瞬間青に変わる映像。
まあなんというか私はもともとホログラフィック原理を信じている方なのでこの映画に対してこの解釈しかできないわけですが、そういうのってどうなんだろう…
映画とか本とか、文化芸術を鑑賞する醍醐味って、自分の中にはない異質なものと出会うことじゃないの?と思わなくもないです。自分に親和的な価値観を強化する材料にしてどうすんだって。
まさに人は見たいものだけを見て現実を作っていく…奇しくもこの映画のテーマに話はループしていく。
2024/1 海獣の子供
鉄コン筋クリートのスタジオか…
だから内容も難解サブカル的なやつなのかね?難解っていうわけでもないけど
これはひいき目に見なくてもスピリチュアルの映画といっていいよね?さっきのサイトレスの話とも繋がるんですけど、もともと私がスピリチュアルを信じているせいなのか「要はワンネスの話だよね?」という感想にしかならず。
琉花の「私が宇宙…!」っていう台詞あるし。
ワンネスを徹底して唯物論的に説明すると、アングラードが言った「人間の体をつくる素材も宇宙から来たものであり、宇宙の全てのものは同じ材料から作られている」っていうことになるのかもしれませんが、それだけでワンネスっていうのはちょっと無理があるかな。
エビの尻尾とゴキブリの羽は同じ素材って言ってもエビ=Gには絶対にならないからね…
そんなときに大変画期的な説明を以前見つけたので共有させて下さい。
去年まではブログを更新されていた荒吐相音さんの記事から見させて頂いたんですけど
もう何週間もお見かけしていない。(もしや私とは別の世界線に行ってしまったのだろうか…)
で、上の動画のハイライトを要約すると、「人間が自分のことを自分と認識するためには、それ以外との境界が必要だ。つまり『外の世界』があって初めてそこから区別した『自分』も同時に存在できるのだから、『外の世界』も『自分』を構成するのに不可欠な存在であり、広い意味では自分の一部である」
ということなんですけど(上手く言語化できてる?)
唯物的な皆様におかれましては上記の説明が最適かと思われますが(めっちゃ嫌味な言い方で草)
本当の「ワンネス」は理屈ではなく、物理的に脳で理解するのは不可能なぶっ飛んだ次元のこと。らしい。
人間は五感の認識の外には出られないけど、人間を動かす魂には可能で、肉体を持ったまま霊体が体から離れてワンネスを体感した人も数多くいる。らしい。
この映画ではそんなワンネスを体験した琉花が、物語冒頭で自分に嫌がらせをしてきた背番号13番の女でさえも文字通り自分自身だったことに気づいて、拾ったボールを投げ返してあげる。
っていうことはわかるんだけど、でもいかんせん実際進行していくストーリーがめちゃくちゃすぎて終始意味不明でした。
細田守監督の「竜とそばかすの姫」で、虐待されている男の子を助けようとすずが一人で四国から東京へ乗り込んでいくシーンが相当ツッコまれていて
「未成年の少女が一人でそんな行動に出てるのに『あの子が決めたことだから』とか言って周りの大人が全員放置するのはおかしい」って言われていたんですが、それに近いものを感じる。
ある程度現実ベースのストーリーなのにも関わらず不釣り合いなぶっ飛びファンタジー展開をねじ込んでくるから、それがあまりにも不自然で「は?何がどうなってんの??」状態です。琉花の両親、とても未成年の娘が行方不明になったときの親のテンションじゃないんだよな…
映像はスペクタクルですごいのかもしれないけど、それ以上にマジでわけわからんくて映像を楽しむどころでは全くなかったです。
えんとつ町のプペルでは下手だなと思ったけど、この海獣の子供の芦田愛菜は上手だった。
あと美しいアングラードが森崎ウィンなのも推せる。