遠い昔のいつかこのブログでも二次創作について書いたエントリがあったはず
私がライフワークにしているといっても過言ではない、もう他のジャンルを書くことはないかもしれないが、これだけは一生書き続けられると言える「ジャエル」についてだ。
遡ること12年前に誕生しその短い全盛期を終えた、過疎ジャンルどころか絶滅危惧ジャンル、もはや私以外誰も更新することのない風前の灯火ジャンルである。
本拠地はアメリカなので、日本以外ならまだ現役がいる可能性は0ではないけど、そこまでは観測していない。
まあ、プレイヤーが誰もいないということはインプを競う相手もいないというわけで、人と比べて気分を害する余地もないのでなかなかいいものである。独壇場だ。本来は競争でもなんでもないんだけどね。。
私がジャエルに初参戦したのは2年も旬を過ぎた2016年から。今年で10周年を迎えることになる…
というガーディアンズ伝説の勇者たちのジャック・フロスト×アナと雪の女王のエルサのジャエル、最近はとんと筆が進まない。
そんなことはこの10年で何度となくあった。半年に一回更新できれば良い方で、数年経っても長編の続きが書けないことも珍しくなかった。だからあっという間に10年も経ってしまうってわけ
そもそもライフワークなんて大袈裟に考えてしまうから腰が重くなってますます取り掛かるのが難しくなるんだ。‘’やりたいこと‘’として認知する前はこんなことなかった。息をするように自然に筆が乗ったし、ただ筋書きを考えるだけで楽しくてしょうがなかった。だから10代でpixivを開設したばかりのときに書いた小説は、十数年経った今でも毎月いいねが増え続ける驚異的ロングセラーとなっている。さすがに恥ずかしいので全然嬉しくない。
今執筆中の長編は第1作目の投稿が5年前。いい加減終わらせたいけど大風呂敷を広げすぎたせいで10作目を控えても終われそうにない。長編となるとどうしても壮大な展開を追い求めがち。
なんとなーくぼんやりと今後のストーリー展開を考えてはいるものの、いざ文章を書くとなると勢いが出ないというか、、、やっぱり興が乗るためにはまとまった長い時間がコンスタントに必要になるし、、隙間時間で書き進められるようなものじゃないし、、
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という言い訳が巡る中、テンションを上げるにはとにかく供給が必要だということで、最近アナ雪の聖地巡礼をしたりアナ雪の資料を収集したりということを続けていたので、それについて記録していくよ(ようやく本題)
アナとエルサのフローズンジャーニー
ディズニーシーでたぶん2024年にオープンした新エリア、ファンタジースプリングスを遅まきながら訪れました。






もちろんフローズンジャーニーに真っ先に並びました。
数年前にランドで新設された美女と野獣のアトラクションに登場し我々に衝撃を与えたあのリアルキャラクター人形が大活躍。しかしある程度光のあるところで見るとやはり動きにぎごちなさが目立つ。
そう、乗り物に運ばれてストーリーを再現する人形とプロジェクションマッピングを見せられるという基本構造は美女と野獣と同じでしたね。あちらはコーヒーカップ、こちらは水路をボートでという違いくらい。
アナ人形の登場と共に生まれてはじめてが響き渡ったところでは泣きそうになった。この声の台詞や歌はもう二度と聴けない。神田沙也加の死でアナ雪(特に2)の深遠さはより増した…というか過去の唯一性、アウラ性、二度と手の届かないところへいってしまったという感覚が完成されてしまった。
そういえば台詞がちょくちょく映画と変更されてたみたいなんだよね。
ハンスがエルサに剣を振り下ろすところは無言だったと思うけど「自分のしたことの責任を取るんだ!」みたいな台詞があった。あとアナの氷が解けた後のエルサの台詞は映画では「私のためになんてことするの」だったと思うんだけど、「私のために自分を犠牲にするなんて」になっていた。
より状況説明的になったみたいだけど。前提知識が何もない人向けにそこまで懇切丁寧に教えてあげるってことなのか?実際その効果はあるのか?
どちらにせよ…アナの台詞だけは絶対変えられなかったんだ…

でも、ワンスアポンアタイム(ディズニーのオリジナルドラマ_あらゆるディズニーキャラが出すぎてストーリーがありえん複雑でコンスタントに追ってもマジでわけわからんくなる)に出てきたエルサのビジュが良すぎて他の実写エルサは誰一人そのクオリティに届かないと思っちゃうんですよ。。髪も盛りすぎてなくて地毛っぽくナチュラルだし



『アナと雪の女王』の光と影
二部構成で、一部が2014年当時のリアルタイムなアナ雪の批評。二部がジョン・ラセターと宮崎駿の相互影響の話。
二部はいいとして、一部、面白かったです。以前のディズニー作品と比較したアナ雪の新規性やジョン・ラセターをはじめ日本アニメに影響を受けた制作陣が取り入れた手法など…
ディズニーの歴史として、伝説のアニメーター現役&ウォルトディズニー生存時代の黄金時代、80年代頃に停滞期、80年代末ラセターたちの時代を迎え(リトル・マーメイドに始まる)ニュークラシックス、それが90年代までは続いたが新しい3DCGに遅れを取るなどして2000年代低迷期、2013年アナ雪大ヒットでディズニー完全復活なるか…みたいな話(ざっくり)がありましたが
その後ポリコレという魔物の登場でまたしても低迷期が訪れることを未来を生きる私は知っているので、、なんとも、、ラセターもMe Tooで干されたわけだし、、著者がラセターの功績を讃える度になんともいえない気持ちになるね、、
しかし最近のディズニーってどんな感じなんですかね?今夏モアナの実写があって、それで実写プリンセスラッシュは終わるのかな?
ズートピア2もまだ観てないや。だいぶ前にディズニー+やめちゃったから
往年のディズニープリンセス映画では冒頭に実写の本が開かれて「昔々あるところに」という説明パートから始まって、ラストも本が閉じられて終わるという伝統技法があり、ニュークラシックスの時代にリトルマーメイドなど様式を崩した作品もあったが、いずれも世界観の説明シーンに冒頭何分も費やすというのは定石だったらしい。
それがアナ雪ではなかった。氷の切り出しシーンの後にいきなり幼少期。その後も異常に展開が早く考えさせない構成で必然的に感情移入が起きるとか(そうか??)
個人的に刮目したのは、「舞台設定の様々な矛盾」に言及があったところです。
アレンデールは不思議な国である。主な産業は「貿易」と語られているが、何を売り買いして国を維持しているのかは不明だ。地理的条件から考えれば海洋資源が主な取引商品にも思われるが、作中には漁港も魚介市場も描かれていない
群衆は屋内に閉じこもったままなのか国の一大事に誰一人立ち会うこともない
政治体制も不可解だ。本作では冒頭で王と王妃は海難事故で死亡。アレンデールは指導者を失う。玉座は空位のまま、エルサが戴冠式に臨むのはその三年後だ。
その間アレンデールは、一体誰がどのようにして政治的経済的指導を行っていたのだろうか
「ハンス王子に国を任せます」と言い残す。エルサなき後の全権は、即刻アナに委譲されるらしい。とすれば、この国は議会なき王家の独裁国家であり、アナの権力は絶大である。臨時とはいえ、他国の来賓による国家運営で、国民に責任を全うできると判断して良いのだろうか
王女二人の根本的な動機には一貫して「民衆の幸福」という重大な前提が欠けている。前提として、エルサは魔法のコントロールが不充分であれば、国民のために即位を辞退するという選択肢はなかったのかという問題もある
むしろ、両国の国賓を危機に陥れた外交上の失態は、王女エルサが頭を垂れて謝罪すべき重大事件であり、アレンデールの貿易にとって大きな損失なのではないだろうか
アナの致命傷や巨人の襲撃をエルサが知らなかったとしても、豪雪の中を訪ねてきた妹をねぎらいもせず、暖もとらせず、食べ物も防寒着も何一つ与えず、遥かな首都まで身一つで即刻「帰れ」と放り出す対応だけでも、死刑宣告と変わらない仕打ちではないか
また、どうにも分からないのが地形と距離感である。
ノースマウンテンは、アナとクリストフとスヴェンが深夜に狼の襲撃に遭いながらもソリを飛ばして疾走し、その後も夜通し歩き続けて、ようやく辿り着いた場所だ。
ハンス一行の移動時間は短すぎるのではないか。
常識的に考えて、完全防寒・徒歩行軍以外はありえないのではないだろうか。
加えれば、アナに国を任された身でありながら、遭難の危険もある捜索隊を指揮するのは、アナと同じく国政放棄なのではないか。
氷の宮殿では人間的衣食住は不可能ではないのか
アレンデールの寒冷化は毛布配布などでは到底解決できないのではないか
マジでそれすぎる☞☞☞
私も当時アナ雪観たときはこういうのが全て「は??」の連続で1ミリも感情移入できなかったしつまらんかったんだよな。歌は抜群に良いけどどうして大ヒットしてるのか全く共感できなかった。むしろアナ雪アンチだった。
ジャエルに出会わなければアナ雪好きになることなんて絶対なかったので、動機が不純なんですよね。
しかし、「主観的心象を綴ったファンタジーとして感情移入しながら見る」ことでこれら数々の矛盾は全て解決されるという。
アナとハンスの出会いは水の美しい港がふさわしいのであって、魚臭い漁港であってはならない
氷の宮殿はエルサの心象を形象化したものであるから、美しく整った外観や内装でなければならない。食料や家具や光熱器具など生活感の漂うアイテムは何も要らない
アナを心から求める「真実の愛」に気付くのはラストだから感動するのであって、途中でアナを優しく気遣っては感動が薄れてしまう
アレンデール国民は、すべて従順で常に王女姉妹に従い、王家への反抗やハンスへの異議申し立てなどは考えもしない。
政治は「誰かが王に代わって執行」、経済は「何らかの貿易」で潤っているので、王室に貧困は無縁だ
「多分こうであろう」という希望的推測を束ねた心地よい心象によって、各キャラクターの主観に沿うような絶妙なバランスで成立している、らしい。
その整合性のなさをどうにか埋め合わせたのがアナ雪2ってところなんだろうか。説明なしで成立してたエルサの魔法の由来と両親の死に説明を加えることで。
それにしたってあからさまに後付けだったけど。。
アナ雪批評に戻ると、これは「日本型主観主義」と呼ばれ、没入を促すカメラワークにも徹底されているとのこと。
他にも、八頭身のクラシックプリンセスに対しアナやエルサは六頭身で頭が大きく、顔は目が大きく鼻と口が小さく顎が尖っている。これは「『カワイらしさ』を異常発達させた」日本的なキャラクター造形。
つまりアナ雪がウケる土壌はもともと日本で整っていた。だから日本でここまで大ヒットしたのではないかと言われている。
アナと雪の女王 Episode.0
ディズニー的都合の良いお伽話とYA以上のある程度大人びた文体の相性、バランスがすこぶる悪い小説だった。
これが映画ならまだ違ったかもしれない。しかし文章で人物の魅力を表現するというのは難しい。
こちらが感情移入する間もない内に「美しく活発で前向きでユーモアに溢れ思いやりもある完璧なイドゥナ」を最初から押しつけられている感覚。半分イドゥナもう半分アグナル一人称なのがまた拍車をかけた。
ペテルセン卿の慈悲で「戦死したグレタとトーラの娘」の振りをすることになったイドゥナだが、あんな国民みんな知り合い同士みたいな村レベルの小国でそのグレタとトーラの知人がいないわけがなく、「あの二人にそんな娘はいない」と誰か気づきそうなものだけど…?どうしてそう容易く身分を偽れた?
そもそもノーサルドラとの戦いで父親だけでなく両親を亡くした子供が大発生してるのも違和感でしかない。母親も兵士なのか全員夫に同行したというのか?子供を国に残して?
ペテルセン卿の計らいでイドゥナがアグナルと一緒に城で過ごすことになったのは、自分がイドゥナを匿ったからこそ経過を見守るという点で理解できなくもないが、周りからしたら歳が近いだけのいち平民の娘が城に招き入れられる特別扱いは意味不明では?アレンデール王家と国民の距離感はシリーズとスピンオフ通してずっと謎
一年発明家の見習いで風車作りを学んだだけですぐ競合として起業して成功する16歳のイドゥナ。あとこの国の知的財産権とかどうなってんだ?
ヴァサールの罪を明かされたとき、もともと軍事大国のヴァサールが開き直ってアレンデールに攻め込まなかったのは何故?アレンデールより強いんだから制圧していくらでも歴史改竄できたのでは?まあこれは歴史変わっちゃうからなしなんだけど、確証もないルナ王女とイドゥナの言い分だけで大国の王相手に急に強気になれるアレンデールなんなんだ?勧善懲悪が過ぎる
イドゥナのプロポーズは2のクリストフ失敗プロポーズのオマージュだけど、これも文章で読むと唐突感がすごい。そのトナカイいつのまにどこから連れてきたん?映像と違ってギャグシーンが機能しないんだわ。。
映画で出てきた大人のイドゥナの王妃らしく印象の薄いお淑やかさとこの子供時代のイドゥナが全然繋がらないんだよね。アナ雪の2以降の後付け感めちゃくちゃあるよな。
あと2010年代以降ディズニーがポリコレで封印した男女の純愛を今さら強調されても…って気分になる
そんでご都合主義ストーリーなのに「私は運良く王家に生まれてきた王女とは違う、自分の手で幸せを掴んだ!」って現代ネオリベ感出してくるのなんかなぁ
という感じで文句しか出てこなかった。映画アナ雪と同じですね。
小説影のひそむ森にも出てきたブロジェットの菓子店、アナの馬ハヴスキはイドゥナが農家のハンセンからもらった仔馬だった、サーヨルゲンビョルゲンは先先代リタ王妃がアグナルに作ったぬいぐるみ…などの小ネタ確認。
劇団四季 アナと雪の女王

もう5年もやっているのに、ずっと行きたいなぁ行きたいなぁと思いつつ結局来年千秋楽だというタイミングで重い腰を上げ行くことに。
一階の一番後ろの列のA席だったのですが、あまりにも遠くてライブ感が全くなかった…
前の方で観たかったなぁ…全然違う体験なんだろうなぁ…
でも四季の会にも入っていないし予約可能日から即押さえるってこともできないから。。
ダメもとで今後の公演も調べてみたけどやはり前の方にもう空席はないらしく。
残念…
それでもレリゴーの後に拍手喝采が巻き起こり、みんなこんなに遠いのに没入できるのか、すごいなぁと思った。
映画と共通の歌の歌詞がちょくちょく変更されていてなんでだろう。「突然気が付くの 素敵な若者に」が「凛々しい若者に」だったり。
日本語歌詞は映像の口の形に母音を合わせる都合で訳されてるから、その条件なしで日本語で歌うならこの方がいい!っていう事情があるんだろうか。
最近の舞台って、プロジェクションマッピングはもう必須の演出要素なんですね。十数年前に注目された技術だけど、これが出る前はどういう風にしてたんですかね。
舞台やショーの演出の一部として必要に応じて利用されるものであって、プロジェクションマッピング自体を見世物として今さら都庁でやってるのはマジでダサすぎるんだよな…
生ける岩の谷のトロールは「隠れ人」に代えられてノーサルドラ出身である王妃が呼び出すっていう演出。こうして人外を演じる困難が回避されたのだが、オラフはどうするんだろう?と思っていたら白い服を着た人間が後ろから人形オラフを操るという苦肉の策だった。難しいよね
しかしオラフ役の声かなり良かった。もちろん人間の声(notアニメ声)なのにオラフらしさのエッセンスを抽出してるという感じで「オラフ!!」だった。
「危険な夢」というオリジナル曲があってエルサの「本当はアナと一緒にいたい でもそれは危険な夢」という風に映画では描写されていなかったエルササイドの心情の補完があった。
アレンデールを極寒の冬が襲ったことを知って自ら「降伏します」とエルサが宣言して連行されていったのは、ハンス一行との戦いの再現の困難さからか、先の批評でも言われてきたようなエルサの保身しか考えていない不可解さの解消が狙いなのか。