歩きで峠を攻める

pixivで11年間二次創作やってます。映画・ドラマ・アニメの感想とか、その他雑記。時々イラスト

トマソニアンとしてのれっきとした理由

超芸術トマソン」を読了しました。

 

booklog.jp

 

トマソンとは?

 

bijutsutecho.com

 

近年でもツイッターとかでこういう感じの投稿がよくあって、なんともいえない見落としがちでどうでもいい情報や景色が鮮やかに肉薄してくる感じ…とでもいいましょうか、それがたまらなく好きです

 

このサイトみたいなのね。

 

shirouto-kenkyu.com

 

トマソン関連ではないですが、特に好きなのはこの記事で、好きすぎて数年に一回読み返しています

 

shirouto-kenkyu.com

 

こういう世の中にほとんど認知されていない感じ、我々の観測で初めて実体が立ち現れてくる感じが良い。軍艦島みたいにあんまり人気で公式にツアーまで催されるようになったら陳腐化してしまう。

 

と思っていたんですが、既に40年も前から概念は発明されて学会まで設けられたりNHKに何度も特集されたりしていたようです。

 

そして、自分がこういうものが好きだという状態にも説明のつかない何かがあると思っていたのですが、実はそれも明確で論理的に説明可能だったと知りました。

 

つまり超芸術というのは当然世界(生産制の社会)には組み入れられない物件だから、どうしてもその発生と同時に廃棄される運命にある。

それがしかし不動産的物件の場合には簡単に廃棄するわけにもいかず、いやおうなく当然世界の一隅に残されることになり、それが私たちに観測される。

 

「生産制の社会」の息苦しさ。その同じ社会に身を置きながら、有用性から解放され、何の役に立つこともなく、しかし飄々と何食わぬ顔でその身を晒すトマソン物件。

 

それがトマソンの魅力だったわけです。なんのことはない、己の社会不適応さゆえに生産制の外側を感じさせるトマソンに惹かれたということ。

 

それって何だかなぁ……と思わないでもないが、かといってそれでトマソンの良さが薄れるわけでもなし。

 

読み進めていくと、私のこの「なんだかよく分からないなんともいえない感じが良い」というのと似たような所感が述べられていました。

 

やはりこれが無いとダメだ。胸騒ぎである。最近あちこちからトマソンの報告を受けて思うことは、その胸騒ぎが欠落しているものが多いということ。(中略)

基本が間違っていると思う。超芸術というものの存在を説明するためにはそれが成立するいろいろな条件を提示しなければならなかったのだけど、じゃあその条件に合えばすべて超芸術として合格かというと、やはりそういったものでもないと思うのである。

その意味でいうと、本当は超芸術なんて二のつぎなのだ。まずはその物体を前にした胸騒ぎがあり、それを考察していくと、何らかの道具でもないし不動産でもないし芸術でもないし、結局それは超芸術としか言いようのないもの、となるのが事の本筋である。(中略)

このところ超芸術の存在が多くの人に知られてくるのは喜ばしいことなのだけど、それが制度化されることの退屈さを予感しはじめているのも事実なのである。

 

いささか引用が長くなりました。が、これこれ!まさに私が思っていたことよ。

子供が自分たちだけで通じる原初の遊びをやっているような、そんな感じなのかな。大人からしたら意味不明で。でも大人がそれを発見して、味を占めて生産制に組み込んで利用しようとしたり、頭で考えて既存の思考形式で処理しようとしたら途端に色褪せてくる。胸騒ぎが失われてしまうから。

 

もう一つ、これもまた含蓄があるなあと思った文章があったので引用させて下さい。

仲間内の楽しみだった路上観察学がマスコミに取り上げられて大々的に扱われることについて。

 

このところはそれが冗談をひとつ超えはじめている。人類の新しい価値観が路上に尻尾をのぞかせていて、その本体が何ものであるのかという興味に、私たちは大真面目にならざるを得ないのである。ところがその興味を追いかけるには冗談をエネルギーとしなければ進まないわけで、その運転がなかなか難しい。つまり自分の運転が。

 

誰がどう見たって必要で真面目で立派だと言われるような分野なら、その行為自体に疑問を持って葛藤したりしないで済む。けれど、そうでない本来はくだらないこと、でも興味があって自分には必要なことにコミットするにはそうはいかない。

 

規範が頑丈で明確だった昔より、今の方がこういう悩みは多く発生することでしょう。特にネットが普及して以来、冗談みたいなくだらないことで稼げたりするし、もう勉強ができる子が模範とされる時代でもない…よね?たぶん。

 

音楽は役に立たない。役に立たないから素晴らしい。役に立たないものが存在できない世界は恐ろしい。

 

と言ったのは坂本慎太郎。すいません、思いついたこと片っ端から書きすぎてとりとめのない文章になってきた。

 

著者の赤瀬川原平さん、文章にバブル期のブンカ人っぽさはあるものの、トマソン写真にコメントするときの例えの面白さ、瑞々しさが光ります。純文学もされていたとのこと。

 

これはもう明らかにトマソン爆弾の実験場である。(中略)秘密警察もさることながら、ここには放射能よりも強力なトマソン能が滞留しているはずだ。

 

ふつうトマソンは何年もの年月を要してじわじわと出来上がるものだが、この実験ではそれが一瞬にして形成されたのだろう。大変な威力である。

 

まだまだ面白い文章は沢山ありますが、あまり引用ばかりしても独り相撲なので、最後にもう一か所だけ引用させて下さい。

 

私たちはまだほんの一部分だけを見ているのだろうと思う。いずれまたどこかに、とんでもないものが見えてくる。私はまだまだ初体験に憧れている。メクルメクのが大好きである。

でもそれは計算して狙ったところからは外れるだろう。あらかじめ筋肉で固めたところから光は差してこないと思う。退屈して、好奇心が独りぼっちになってしまって、筋肉がみんな仕事に出かけた隙に、冗談半分に光は漏れて差し込んでくる。

 

なんとこちらの赤瀬川原平、今まさに写真展が開催されているのです。すごいタイミング

 

www.scaithebathhouse.com

 

2023年1/26~3/25

本人は9年前に亡くなっているけど、遺された写真がセレクトされて展示されている。

場所は六本木、ウキウキしますね。

行ってみようかな。